shougaの生き方模索雑記

日記、心の安定、長野移住、登山、etc…

食器収集① 焼物との出会い

食器にこだわりだしたのは、いつからだったか…。

大学1年

確か、大学1年で1人暮らしを始めてしばらく経った頃だ。当初は新生活が忙しくて家具や日用品も揃っていなくて余裕が無かったが、落ち着いてきた頃から自炊を始めた。そうすると実家にあった様々な食器と比べて物足りないので、料理を乗せた時の見映えが違うと、うっすら感じ始めた。

5月に長浜に行った時に幾つかの食器を買った。淡い青紫色で描かれた紫陽花の小さな茶碗が大のお気に入りだった。(落として割ってしまったのでもう残っていないけど…)青い透明なガラスの器には素麺を入れていた。その見た目はいかにも夏らしく涼し気だった。縁が斜めになっていて上に箸を置くと転がるのが使いにくかった。

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それとノリタケのボウルを3つくらい買って基本はそれにおかずを入れて使っていたような。食器に関しては当時はそのくらいだったか。記憶が朧気であまり覚えていない。

 

 

大学2年

2年の夏休み、京都の五条坂で開催された「陶器まつり」に行った。実際見に行って清水焼はあまり欲しいとは思わなかったので何も買わなかったが、焼物というものへの興味は確かに強まった。

 

そして直後に、福岡小倉にある祖父母の家に遠出するついでに、佐賀県伊万里市の山奥にある『大川内山』という鍋島焼の窯元が集まる町へ向かった。伊万里駅前からバスで30分くらい。

鍋島焼(なべしまやき)は、17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩) において藩直営の窯で製造された高級磁器である。佐賀藩支配下にあった肥前国有田・伊万里(佐賀県有田町、同県伊万里市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川内山(おおかわちやま、佐賀県伊万里市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」または単に「鍋島」と呼んだ(伊万里焼の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼称する場合もある)。鍋島焼の伝統は1871年明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。

鍋島焼 - Wikipedia

 

 

f:id:shouga4:20210713103346j:plainこれは2回目訪問時の写真だが、最初来た時は山の方に霧が出ていて幻想的だった。2回目だけでも写真撮っといて良かった。



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初めての大川内山で買った焼物達。右上からタンブラー、おたま置き、椿の中皿、豆皿、箸置き、絵付け中皿、花の小鉢、四角い豆皿となっている。

 全て磁器なので割と使いやすい。青磁が多いがその色合いは様々。色絵が1枚でいいのでどうしても欲しかったため、左上の皿を買えて良かった。確か通常はもっと高いはずなのに、白い部分にわずかなキズがあるらしく3000円で買えた。どこにキズがあるのか、隅々まで見ても未だに全く分からない。使われている色は4色。赤、黄、青緑、青だが、その色合いの涼し気な感じがとても良い。4色というのも騒がしくなりすぎず適度に華やかでちょうどいい。そして何と言っても手書き特有の味がある。プリントされた絵柄ではこうはいかない。

 

普段使い

タンブラー、椿の中皿、おたま置きを日常的に使うことになる。このタンブラーは下側から上にいくにつれて口が広くなり縁が持ちやすい形状をしておりグッドデザイン賞も受賞したらしい。

逆に花の小鉢、箸置き、豆皿、四角い豆皿は殆ど使うことが無かった。他の食器で代用できてしまう。形状が特殊なので普段使いには向いていないが、旅館などでは似合うだろう。

 

 

その後の動きは分からない。大学3年の時にもう一度行った気もするが、どうだったか。写真が無いので行ってないのかもしれない。ただ、初めて大川内山を訪れた旅行から帰ってきた時、「素晴らしい場所を見つけた」と興奮していたのは覚えている。

今回買った焼物を使っているうちに気持ちが湧き上がってきて、2018年大学卒業後のGWで再び大川内山を訪れることになる。